大村神社には、鋳銭司村で生まれまれ育った幕末維新の英傑、大村益次郎が祀られています。益次郎さんは明治2年(1869)11月5日大阪で亡くなり、故郷の長沢の池北畔の円山南麓に葬られました。明治4年、明治天皇の名代として岩倉具視が墓参したのを受けて、明治5年3月10日(当時はこの日が益次郎さんの誕生日とされていました)神社が建てられました。初代の大村神社です。
現宮司の曽祖父、松村常盤は鎮座祭の祝詞で「生前彼と親しかった鋳銭司村の松崎與兵衛、岡本助左衛門、末廣庄右衛門、柿並兵吉、前田熊治郎ら180人が鋳銭司で最も景色が良くて、朝日や夕日が照り輝く素晴らしい場所を選んで神社を建てた」と述べています。鋳銭司村を始め、近隣の青年たちが多数勤労奉仕をしたという記録も残されています。
幕末から明治にかけて日本の近代国家に貢献した英傑は、次々と神社に祀られました。神社の建立は、吉田松陰は東京の松陰神社が没後23年、萩の松陰神社が48年後、伊藤博文は23年後、乃木希典は東京の乃木神社が8年後、下関の乃木神社が12年後でした。大村神社が益次郎さんの没後3年で建てられたことを考えますと、当時の鋳銭司の人々の益次郎さんに対する強い思いが想像されます。
「大村益次郎十年祭」(明治11年)を記念して、伊藤博文らが境内に新道碑を建立、昭和10年には墓所が国の史跡に指定されました。ところが、大村神社は神社としては無格社(当時、神社は官幣社、国幣社、県社、郷社、村社などと格付けされていましたが、大村神社は格付けがありませんでした)のままだったので、当時の鋳銭司村の松永弁蔵村長らが大村神社を県社に格付けするように申請、県社に相応しい社殿を立てようと「紀元二千六百年」(昭和15年)の記念事業として、翌年から鋳銭司村を挙げて現在の場所に新しい社殿の建設を始めました。
昭和16年から始まった新しい大村神社の建築工事は、前途多難でした。同じ年に太平洋戦争が始まり、戦況の悪化に伴って建築資材が不足、当時を振り返って村の古老が小職にしみじみと語ってくれました。神社が完成したのは、終戦後の昭和21年のことでした。エピソードを二つ。神社には鳥居がつきものです。そこで初代の神社の鳥居を移設しようとしましたが、新しい神社の鳥居としては小さすぎるため、四方八方に手を尽くして探査、朝鮮半島の
某所に作る予定だった神社の鳥居が徳山港に放置されていることがわかり、村で作り酒屋を営んでいた中島東作氏が購入して寄付しました。もう一つ、初代の大村神社の社殿の行方ですが、廃材にする訳にはいかないと、当時の松村豊範宮司が兼務していた防府市華城の伊佐江八幡宮の社殿として移築しました。初代の大村神社にお参りしたい人は、どうぞ伊佐江八幡宮にお参りください。
二代目の大村神社が完成してから24年後、高度経済成長唯中の昭和45年4月5日、奉賛会主催の「大村益次郎先生百年祭」が盛大に行われました。式典には名誉総裁:岸信介元総理、最高顧問:佐藤栄作総理、重宗雄三参議院議長、総裁:田中龍夫衆議院議員、会長:兼行惠雄山口市長(いずれも当時)という宿錚々たる人たちが列席しました。岸元総理の他、橋本正之山口県知事、筑波藤麿靖国神社宮司(いずれも当時)らが祝辞を述べたと記録されています。